フォート・ポイント国立史跡

 
1869 Ft Point NARA 77-F-94-101-31

フォート・ポイント国立史跡

南北戦争開戦時、完成したばかりであったフォート・ポイントは、アメリカ陸軍の最も重要な沿岸防衛要塞の一つでした。当時の軍当局はゴールデンゲート海峡に位置するフォート・ポイントを「太平洋沿岸全域への鍵」であると宣言しました。その強大なれんが造りの要壁は難攻不落であると賞賛されましたが、同時期に使用されていた新型施条砲(砲身内部に螺旋状の溝が刻まれた大砲)はその強固な要壁をも粉砕できる威力がありました。(東海岸の類似した要塞が攻撃を受けたことがありました。)結果的に、フォート・ポイントは一度も実戦において使用されることはなく、1860年代の沿岸防衛兵舎の当時の暮らしを体感・探索できる文化遺産として現存しています。

 
上:オローニ族インディアン。
リンダ・ヤマネによるイラスト
上:オローニ族インディアン。リンダ・ヤマネによるイラスト

ゴールデンゲート海峡の見張り台

サンフランシスコ湾への入り口は、古来より人々の居住の地となってきました。この地域の最初期の住民であるオーロン族とミウォク族の人々の祖先は、食料確保や交通を湾の水に頼っていました。約4,000年前のものと思われるオーロン族の集落跡がフォート・ポイントから1マイルほどの沿岸沿いに確認されています。

キャスティロ・デ・ホアキン

1769年、ガスパー・デ・ポルトラ率いる陸路探検隊がサンフランシスコ湾へと到着しました。1776年には、スペインによって、伝道師と兵を率いての最初のヨーロッパ人の入植が行われていました。イギリスとロシアによる侵略を恐れたスペインは、湾の入り口の一番最狭部である小高いホワイトクリフ(現在のフォート・ポイントが位置する)を要壁化しました。1794年に建造されたキャスティロ・デ・ホアキン(ホアキン城)は9〜13門の大砲を備えた日干しレンガ作りの建造物でした。この小型の要塞は、1821年にメキシコがスペインからの独立を勝ち取り、一帯の支配権を得るまでの間、スペインの植民地を守りました。

1835年、メキシコ軍はその拠点をソノマへと移し、 日干しレンガのゴールデンゲート海峡の見張り台城壁はそのまま残され、雨風さらされることになりました。メキシコとアメリカ合衆国間の戦争が1846年に勃発。同年7月1日にアメリカ軍将校ジョン・チャールズ・フリーモント率いるキット・カーソンと10人の追従者が城を急襲し、大砲を制圧しましたが、要塞がもぬけのからでした。

1848年にアメリカがメキシコとの戦争に勝利すると、カリフォルニアは合衆国の領土となりました。その年、アメリカン・リバーのサター採鉱場で金脈が発見され、何万人もの金脈を探す人々がその地に引きつけられることになりました。「49ers」と呼ばれたゴールドラッシュ時代の開拓者のほとんどは海路で到着し、1949年時点でサンフランシスコは西海岸有数の港となりました。1850年にカリフォルニアが合衆国の31番目の州にな

 
Map of forts

フォート・ポイントと南北戦争

1853年、アメリカ陸軍工兵隊はフォート・ポイントの建造に着手しました。最低段の大砲は、砲弾が水面を這うように飛んで敵船の喫水線上に命中するよう、水面ぎりぎりの位置にデザインされました。90フィート(約27メートル)あった崖は海面から15フィート(約4.5メートル)ほどになるように発破されました。 この建造物は、第3システムと呼ばれる、当時の砦によくみられた7フィート(約2メートル)厚の要壁や何層もの砲郭 構造を備えており、沿岸地域をできるだけ広範囲に防衛できるように設置されました。当時、東海岸には30を超える要塞が存在しましたが、フォート・ポイントは西海岸唯一の要塞でした。1854年、現地を視察したジョセフ・F.K.・マンスフィールド将軍は「この岬は太平洋沿岸全域への鍵であり、不屈の精神で戦いに 臨 むことになるだろう」と宣言しました。

失業した炭坑労働者を多く含む200名の人員が、8年間に渡り要塞にて雇用されました。1861年、戦争が迫りくる中、陸軍は最初の大砲を要塞の砲台に設置しました。太平洋司令部の司令官であったアルバート・シドニー・ジョンストン大佐は、ベイエリアの防衛システムの準備を進め、要塞の最初の部隊を指揮しました。ケンタッキー州出身のジョンストン大佐はその後、南部連合軍に加わるために陸軍を除隊し、1862年、シロの戦いにて戦死しました。フォート・ポイントを守った砲兵たちは、 南北戦争全体を通して一度も実際に敵軍と戦うことはありませんでした。南部連合軍の奇襲船シェナンドー号はサンフランシスコ攻撃を計画していましたが、1865年8月、艦 長は港への航海の途中で終戦の知らせを受けることになりました。

戦中、大西洋沿岸に位置したフォート・ポイントと類似した要塞であったサウスカロライナのフォート・サマーおよびジョージア州のフォート・プラスキが受けた深刻な被害は、新型施条砲に対する石造要壁の有効性に、大きな疑問を投げかけることになりました。 戦後間も なく、 部隊はフォート・ポイントから撤兵し、その後、軍によって常駐部隊が要塞に置かれることはありませんでした。しかし、要塞は風化を防ぐための最低限の保護を受けるに十分な重要性を保ち、1869年には花崗岩製の護岸が完成しました。その翌年、要塞のいくつかの大砲は、要塞近くの岸壁に位置したバッテリー・イーストに移され、より強固に保護されることになりました。1882年、フォート・ポイントはメキシコとの戦争の英雄の名に由来するフォート・フィールド・スコットと正式に命名されましたが、新名称が定着することはなく、のちにプレシディオに位置する砲兵基地にその名が適用されることになりました。

 
Golden Gate Bridge tower foundation construction, 1933.
1933年、ゴールデンゲートブリッジ支柱の基礎建築工事 。

新紀に向けて

1892年、アメリカ陸軍はエンディコット・システムと呼ばれる、金属装甲と後装式の施条砲を備えたコンクリート製の要塞の建造に着手しました。それからの8年の間に、フォート・ポイントに備えられていた旧式の滑腔砲(砲身内部に螺旋の溝が無い大砲)のうち102門がスクラ ップとして売却されました。1906年の地震で損傷を受けた要塞は、向こう40年に渡って兵舎・軍事訓練・倉庫として使用されました。第二次世界大戦中、第六沿岸法兵隊の兵士たちはこの要塞を駐屯地として、 地雷地帯とゴールデンゲート海峡に張り巡らされた対潜水艦ネットの護衛にあたりました。

フォート・ポイントの保存

1926年、米国建築者協会はフォート・ポイントを非常に特出した軍用建造物として評価し、史跡としての保存を提案しましたが、資金の確保は難航し、計画は頓挫しました。その後、1930年代にゴールデンゲートブリッジの建設計画が持ち上がると、要塞の取り壊しも検討されるようになりましたが、建設計画における技師長であったジョセフ・ストラウスによって、要塞を残せるように橋のデザインが変更されました。ストラウスは「この要塞に軍事的な価値はもはや存在しないが、石工によるアートの傑作であることに変わりはない。国定史跡として保存・修復されるべきだ。」と述べています。

史跡保護への動きは、第二次世界大戦後に再び活発化し、1970年10月16日、リチャード・ニクソン大統領はフォート・ポイントを国立史跡に認定する書類に署名しました。要塞は、ゴールデンゲートを守り続けたその長い歴史を今日へと語り継いでいます。

 

1860年代のフォート・ポイント

称賛の的と太平洋の誇り

1817年から1867年の間、アメリカの沿岸警備システムは、大西洋・フロリダ州のメキシコ湾岸を合わせて30の要塞を有していました。フォート・ポイントは西海岸建造された、この時代唯一の要塞でした。1857年に発行されたとある新聞記事ではこの要塞を「非凡な芸術的技術による堅牢な石工建築であり、我々はこの建築物が称賛の的と太平の誇りとなるであろうとあえて予見する」と讃えました。このイラストは、要塞の建築様式を数多く紹介すると同時に、理想的な環境下であればどのように使用されていたかを示しています。この施設は重装備の要塞であっただけでなく、数百人もの兵士たちが暮らした住まいであったことにも注目してみてください。

 
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1 城壁の傾斜面2 射撃の際に使用する覗き窓3 出撃路4 練兵場5 砲弾を熱する加熱炉6 砲郭7 火薬庫8 士官・将校用の兵舎9 下士官用の兵舎 10 最上部に位置する軍上層部用の部屋11 芝生で覆われた砲座列12 胸壁13 灯台14 西の砦15 東の砦16 砲座

デザインと構造

フォート・ポイントは、1812年の戦争後、アメリカの主な港を防衛するための、第三システムと呼ばれるシステムを採用した沿岸要塞の好例の一つです。以下に示す見取り図は、東西に位置する砦が増設される以前に描かれたものです。この要塞は、3列の砲郭(大砲が設置された複数の頑丈な小部屋からなる)を持ち、敵軍の砲弾による衝撃を緩和する芝土に覆われた、さらなる大砲を装備した砲座層をも有していました。鋼鉄製の鋲に覆われた門を備えた出撃路が要塞唯一の出入り口でした。1853年に建設が開始され、現地で調達できる建設資材が限られていたため、技術者たちが石造建築構想を断念する以前の段階で、中国など遠方から材料となる花崗岩を輸入することになりました。約800万個ものレンガが、要塞の建設現場にほど近い工場で制作されました。

しかし、工事の終了と同時に、フォート・ポイントは改修作業が必要になりました。南北戦争の東海岸での戦いにおいて、 石造要塞は新型の施条砲での攻撃を防ぎきれないことが証明されてしまったのです。1870年代以降、南東部の急崖に位置するバッテリー・イースト防塁が、要塞の岬先端部での防御力増強を担いました。就在它剛完工時,Fort Point就需要修改。在東岸的內戰證明石牆的堡壘可被來福大炮所摧毀。1870 年代的東要塞,是建在東南方山崖上的絕佳土木工程,它加強了堡壘的防衛工程。

 
FOPO_11a_Resized canon

灯台

これは、霧深く時に不安定な海域で船員を導く、天然の岬部に設置された第3番目の岬でした。最初に建設された灯台は、1852年の完成後まもなく、フォート・ポイント建設のために取り壊されてしました。第2番目の灯台は、要塞の北、岬の先端部に設置されましたが、度重なる浸食により、老朽化が進んでしまいました。現存する灯台は、1864年から、ゴールデンゲートブリッジの基礎部分がその光を遮ってしまうことになる1934年まで使用されました。

大砲とホットショット

当初計画された141門の大砲のすべてがフォート・ポイントに装備されることはありませんでした。1861年10月の時点で、24ポンド、32ポンド、42ポンド砲および10インチと8インチのコロンビアード砲合わせて69門の火器が要塞内および周辺に設置されていました。南北戦争後、軍は強力な10インチロッドマン式コロンビアード砲を要塞底部の砲郭に導入しました。これらの大砲は、128ポンドの砲弾を使用し、2マイル以上の射程を誇りました。要塞が最も重装備されていた時点で、102門の大砲が設置されていました。それらに加え、この要塞は「ホットショット」と呼ばれる専用加熱炉を有し、鋼鉄製の砲弾を真っ赤になるまで加熱し、大砲に装填・発射して木製の敵艦を燃え上がらせることが可能でした。

 
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上、左から:軍の角、トランプ、陸軍のロゴのブリキのカップ、大砲のキャップ。

砦と護岸

要塞の各砦にはそれぞれ15門の小型の大砲が備え付けられ、攻撃者を牽制しました。砦を要塞本体から突き出させることで、防衛する兵士たちがその身を直接胸壁から外にさらすことなく、専用の防壁に守られつつ応戦することを可能にしました。また、地上からの攻撃から要塞を守るため、小型の砲台が要塞正面の西側、城壁の傾斜面用に設計されました。この砲台は建造されましたが、実際に大砲が設置されることはありませんでした。要塞が建てられた土地は、海面15フィート(約4.6メートル)以下まで切り崩されていたため、護岸(右)が必要になりました。この全長1,500フィート(約460メートル)もある建造物は非常に高度な技術力の賜物でした。護岸壁は花崗岩を巧みに組み合わせ、その隙間を鉛で塞いで構築されました。1869年に完成したこの護岸壁は、ゴールデンゲート海峡の荒波をものともせず、1980年代に老朽化が顕著になるまで100年以上も不変の強度を誇りました。国立公園管理局は、この護岸壁を再建築するとともに、強大な波の力を弱めるために防波堤を設置しました。

駐屯地

南北戦争中、500名もの兵士が第3米砲兵隊、第9米歩兵隊および第8カリフォルニア州志願歩兵隊がこの地に駐屯しました。主立った激戦区から数千マイルも離れてたこの地に配備された兵士たちは、演習、砲術訓練、点検、 歩哨任務をおよび補修業務を日課としました。下士官は3層目の砲郭で寝泊まりし、将校たちは一層下に、一人ないし二人部屋の宿舎を持っていました。兵士たちは海岸から流木を集め、暖房設備の燃料である石炭の不足を補いました。要塞の司令官であったウイリアム・オースティン名誉大佐は1861年の報告書の中で、当時の要塞の生活環境を「夏期の基地は霧に覆われ、湿気と風が常に強く、リュウマチとひどい風邪が蔓延している」とまとめています。

Last updated: August 10, 2021

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