Japanese

Rosie the Riveter ( ロージー・ザ・リヴェター)/ World War II Home Front(ワールド・ウォー・トゥー・ホーム・フロント)

1941年12月:隔地のアメリカ空軍基地が急襲を受けたことがきっかけで、アメリカの土地は一夜にして「国内戦線」へと変貌しました。すべてが一変し、特に産業に関わる労働人口は膨れ上がりました。その中には何百万人ものマイノリティー、とくにアフリカ系アメリカ人や、“Rosie the Riveter”(ロージー・ザ・リヴェター、リベット打ちのロージー)のような女性労働者が含まれていました。カリフォルニア州Richmond(リッチモンド)は、戦時中国内に存在した典型的な新興都市で、そのような都市は、移民が防衛産業に職を求めるなか、大きく急速な変化を乗り越えました。

民主政治の兵器庫

戦時中のアメリカ
1940年12月、ドイツの装甲師団がヨーロッパ各地に侵攻していた頃、ルーズベルト大統領はラジオ演説を行い、そのなかでアメリカを「民主政治における大兵器庫」にすることを約束しました。これを達成させるべく、アメリカは翌年の開戦前にすでに、政府・産業・労働者間で新たな協力体制を作り、資源確保や大量生産に重点的に取り組み、結果として大量の兵器が自国や連合国のために製造されました。

このような「総力戦」に対する多大な努力と需要はアメリカ市民の生活を変え、多くの場合、戦後も元の形には戻りませんでした。急激な産業雇用が大恐慌に終止符をうち、人々の生活水準は向上しました。賃金や価格統制などの規制はとくに人々の生活に大きな影響を与えました。しかし戦争は、社会の闇と光の部分を表面に出すことにもなりました。闇市と配給制度が共存し、戦時の需要が革新的な社会制度に拍車をかけた一方で、日系アメリカ人が強制収容され、人種暴動が起きる街もありました。

国内戦線が残したもの

戦争が終わる頃、アメリカは世界の大国に成長していました。労働者の移住で人口構成は永続的に変化しました。人々は豊かになり、街も田舎も都市化が進みました。戦時の従業員医療制度、託児施設や職場安全基準などの社会制度は恒久的に残されました。また、抗生物質、ジェット推進装置、コンピュータ、原子力などの新技術の開発も加速しました。何百万人もの有色人種の人々も、平等な社会的地位を獲得するために動き出しました。

Richmondのかつての造船所関連の建造物は、当時を鮮明に語っています。当園の中心をなすそれらの建造物は、第二次世界大戦中の国内戦線におけるストーリーを語り継ぐために設立されました。

大量生産

偉業の数々
ルーズベルト大統領が呼びかけた「民主政治の兵器庫」にアメリカが応えられた要因は何だったのでしょう?ひとつには、24時間のシフト体制で大勢の労働者が働き通したことが挙げられます。しかし、最大の要因はプレハブ・組み立て技術だったのです。RichmondのKaiser(カイザー)造船所では特に、この技術が多数の運送船や軍艦の進水を成功させる大きな要因でした。

船の大きなパーツは、Richmondの造船所のプレハブ場で組み立てられました。甲板室などは、このプレハブ工場のローラーランウェイの上で製造されました。基礎となる甲板室の部分がローラーの上を移動し、労働者がそれに重構造部品を接合したり、配管・配線を施していきました。

出来上がった甲板室は、特殊なトラクターによって船台に運ばれ、そこでクレーンによって船体の上に取り付けられました。この工程で、造船にかかる時間が大幅に節約されました。また、戦争直前に発達した溶接技術も時間短縮に繋がりました。それまで船はリベットにより組み立てられていましたが、この溶接技術を用いることで、時間や鋼鉄、結果的には人的損失をも削減することができました。

戦争の支援と生活の変化
連合国が戦場で早々に敗れるのを見て、アメリカ市民は事の重大さを理解し、戦場で戦う人々と共に自分達も何かしらの犠牲を払う覚悟を決めました。そうでない人々には「戦争に勝たなければ!」という言葉が返されました。人々は家庭の油を爆薬用に残したり(右図)、廃物の再利用運動、戦時公債の購入、家庭菜園、食べ物を缶詰めにするなどして貢献しました。また民間防衛隊に志願したり、ガソリンやタイヤの配給制、物資不足や停電にも耐えました。

当時の流行歌がその時代の気質を表しており、たとえばBoogie Woogie Bugle Boyなどの「ジャンプ」ソング、I’ll Walk AloneI’ll Be Seeing Youなど別れの悲しみを歌ったもの、When the Lights Go On Againなど終戦への切望を哀愁的に歌うものなどがありました。

平等を求めて

国内の動き
参戦に向けて国の防衛産業が拡大し新たな職が生まれるなか、アフリカ系アメリカ人やその他のマイノリティーがそれらの職につくことは出来ませんでした。マイノリティーの市民権を否定しながらも、ナチスの圧制を非難するアメリカの姿勢は、人々に一層空々しく写りました。1941年、人種差別に抗議するデモであるMarch on Washington(マーチ・オン・ワシントン)を前に、ルーズベルト大統領は大統領令第8802号に署名し、防衛産業において平等な雇用機会を与えるよう要求しました。

戦時中、黒人やアジア系、ヒスパニック系の労働人口は増加しましたが、技術を必要としない単純労働が与えられたケースが多く、職場差別や入居差別を受けた人も多くいました。それでもなお戦時の労働は新たに与えられた機会であり、終戦で職を失った人も大勢いましたが、彼らの期待は高まり、その後数十年にわたる平等への主張にもはずみをつけました。

女性労働者たち

ROSIE THE RIVETERとWENDY THE WELDER(ウェンディー・ザ・ウェルダー)

戦時中、約600万人の女性が労働市場に参入しました。多くは戦争遂行において急を要するものではありませんでしたが、政府は積極的に女性を採用しました。初めは独身の白人女性を対象に、その後、既婚女性、それから白人以外の女性へと対象を広げました。働く女性は男性から職を奪っている、既婚女性は働きに出てはいけない、などの大恐慌時代の働く女性に対する考え方を、女性も含め、克服する必要がありました。戦時中、幅広い階級の女性が職に就きましたが、防衛に従事した者の半分は、白人以外の女性や労働階級の女性(多くは戦前から働いていた)でした。

これまで男性がしてきた仕事に女性が就くと、女性労働者は横柄な態度で扱われたり、不平等な賃金や嫌がらせなどを受けました。しかし、多くの仕事で女性も男性と同等またはそれ以上に仕事ができることがわかると、女性は徐々に受け入れられるようになりました。防衛関係の仕事では、工場で働くものは少なく多くは事務職でした。また米空軍女性パイロット部隊の女性達は飛行機や訓練用の標的機の運搬をしました。防衛関係以外の仕事では、それまでは男性の仕事であったバスの運転手や、記者、検査技師、婦人農耕部隊での農作業員などがありました。1944年には労働人口の三分の一を女性が占めていました。

戦争が終わると、女性労働者は帰還兵のために職を離れるよう促され、多くが職を失ってしまいました。しかし、女性でも「男の仕事」ができることを、はっきりと証明したのです。

戦時中のRichmond

Richmondでの仕事

軍艦の造船

戦時中、Richmondはどのようにして造船の中心地になったのでしょうか?Richmondは鉄道や港が近接し、立地条件に恵まれていたため、Henry Kaiser(ヘンリー・カイザー)の造船所やその他50を超える軍需産業施設が建てられたのです。その背景には、イギリス軍がドイツ軍のUボートの攻撃で船を失ったことがありました。船を交換するため30隻の貨物船を製造する必要があったことから、1940年に緊急造船プログラムが施行され、新たな造船所としてRichmondの造船所が建設されたのです。造船事業に無縁であったものの大規模な産業事業において経験が豊富であったKaiserは、2年のうちに4つの造船所からなる複合施設を完成させました。

戦時中、政府はアメリカ貨物艦船及びLend-Lease(レンド・リース)プログラムを拡大拡大し、3200隻を超えるLiberty(リバティー)及びVictory(ヴィクトリー)と呼ばれる船の建設要請を出しました。Richmondで進水した747隻の船のうちのほとんどが、このLibertyとVictoryで、その数は国内の造船所でも最多でした。Kaiserの成功の大きな理由は、革新的なプレハブ組立方式にありました(前面に記述のとおり)。この方式を使えば、経験の浅い労働者も簡単な溶接などの単純作業の繰り返しが容易にこなせ、そしてそれが建設時間の短縮につながり、さらなる雇用(とくに女性に)を生み出しました。

造船作業に経験が豊かであった労働者たちは、このような「技術の劣化」した作業や、経験の浅い労働者の雇用に反対しましたが、Kaiser造船所は真っ先に女性を雇用した造船所のうちの一つでした。1944年には溶接工の41%が女性でした。多様な労働者が参入すると、人種差別や文化の違いで造船所には様々な問題も起こりました。緊迫した状態にも関わらず、ここでのアフリカ系アメリカ人の労働者はやがて一万人に達し、それより小数でしたが、ヒスパニック系、アジア系、ネイティブアメリカンの人々も働きました。

Richmondの生活

新たな生活

戦時中、多くの労働者が産業都市へ移住しました。Richmondはそういった都市の中でも特に大きな影響を受けました。ピーク時には、従来の4倍にもなる9万人が造船所で働き、急増した人口で交通機関や居住、教育、医療サービスが一気に不足してしまいました。市と造船所で解決した課題も幾つかありました。例えば、Kaiser’s Permanente Health Plan(カイザーズ・パーマネンテ・ヘルス・プラン)と呼ばれる医療サービスを労働者に提供し、職場の救急医療施設に加えて野外病院も設置しました。

Richmond-連邦政府-Kaiser間の協力により、労働者に住居と保育施設も提供されました。それでも住居不足は解消されず、労働者たちは自分達で工夫して貨車や掘立て小屋、トレイラーなどに住みました。同じベッドを交代で利用して眠る人々もいて、そういったベッドは一日中使用されていました。アフリカ系アメリカ人やその他のマイノリティーの人々の住居環境は、隔離されさらに貧しいものでした。長時間通勤、食糧不足、人種問題は根強く残りましたが、Richmondと多様な人々はそれに耐えながら、力強く生きていきました。

RICHMOND:戦時の港地区

現在のRICHMOND


訪問の際は
まずはビジター・エデュケーション・センターを訪問し、展示やショートフィルムをご鑑賞ください。開館時間は午前10時~午後5時、感謝祭、12月25日、1月1日を除き年中開館しています。Marina Bay Park(マリーナ・ベイ・パーク)のRosie the Riveter Memorial(ロージー・ザ・リヴェター・メモリアル)は、日の出から日没まで年中開園しており、国立公園内のその他の公園も同じように開園しています。

歴史ある建物の一つに、Ford Assembly Building(フォード・アセンブリー・ビルディング、左図)があります。ここは戦時中、タンク倉庫として使われた歴史ある建物で、軍用車はここで装備を搭載し、輸送されました。他にも市内にある第二次大戦関連の施設を見て回ったり、車で歴史ある建物を回ったり、Bay Trail(ベイ・トレイル)を歩きながら歴史についての解説を読んでみるのも良いでしょう。当園のウェブサイトに地図や交通アクセス、ツアーのスケジュール、イベントやプログラムに関する情報を掲載しています。

障害者アクセス
ビジターセンター、Rosie the Riveter Memorial、国立公園内のその他の公園は、障害を持つ方もご利用いただけるよう施設が整っています。介助動物の同伴も可能です。

規則
銃器の使用等に関しては、州法に従ってください。

SS RED OAK VICTORY(エス・エス・レッド・オーク・ヴィクトリー)第3造船所に停泊するVictory船は、1944年にRichmondで製造されたもので、太平洋交戦圏に軍需品や兵隊を輸送していました。交通アクセス、開園時間、入園料、障害者アクセスについては、ウェブサイト(www.ssredoakvictory.com)をご覧ください。

ROSIE THE RIVETER MEMORIALかつての第2造船所の船台に建てられたこの記念物は、当時の造船技術を呼び起こすものとなっています。建設中の船体の彫刻(右図)および水際まで続くKeel Walk(キール・ウォーク)には、かつてここで働いた女性たちの画像や物語が紹介されています。

お問い合わせ先
Rosie the Riveter / World War II Home Front National Historical Park
1414 Harbour Way South, Suite 3000
Richmond, CA
94804510-232-5050
www.nps.gov/rori

当園の支援に関するお問い合わせはRosie the Riveter Trust(www.rosietheriveter.org)まで。

Rosie the Riveter / World War II Home Front National Historical Parkは、390園以上からなる国立公園システムの一つです。詳しくはウェブサイト(www.nps.gov)をご覧ください。


Last updated: May 31, 2023

Park footer

Contact Info

Mailing Address:

1414 Harbour Way South, Suite 3000
Richmond, CA 94804

Phone:

510 232-5050

Contact Us

Tools